大分県酒造組合

歴史

日本酒の歴史

日本酒のルーツ

世界に日本酒ほど高度な醸造法をもつ酒はないといわれますが、そのルーツは弥生時代、稲作とともに大陸から米を原料とする発酵酒が伝えられたのが始まりとか。3世紀の魏志倭人伝(ぎしわじんでん)には倭人(わじん)、つまり日本人が酒を好むこと、歌舞飲酒することなどが書かれています。やがて大和朝廷の確立とともに朝廷でも酒がつくられ、神事や祭事に欠かせないものとなりました。10世紀の「延喜式(えんぎしき)」の記述は平安時代に現在とほぼ同じ製法で酒がつくられていたことを教えてくれます。江戸時代になると地域ごとに様々な酒が発達し、製造法も開発され、居酒屋も出現。今日に通じる日本酒のスタイルが出来上がっていきました。

大分の清酒の歩み

1468年に初めて登場する「豊後練貫酒(ぶんごねりぬきざけ)」。この酒は、もち米、白米、麹、焼酎を一度に仕込み、3、40日してから臼でひき、絹漉ししたもの。ちょうど現代の白酒や、清酒のような味で広く庶民に愛飲されていたようです。 その後、江戸時代の豊後の国に、全国にその名を知られる「麻地酒(あさじざけ)」が誕生します。 麻地酒は、蒸し米、米麹、水を仕込み、密封して土の中に埋め、翌年の土用頃まで熟成させてつくる甘美な濁り酒。 「甫庵太閤記(ふあんたいこうき)」、「御伽草子(おとぎぞうし)」にもその名が見えます。土の中に埋め、草茅などで覆うので「土かぶり」とも呼ばれていたようです。日出藩は暘谷城(ようこくじょう)の二の丸に麻地酒をつくって貯蔵し、幕府への献上品としていました。大分の清酒は、この麻地酒の製造工程の流れをくんだ酒といえます。

焼酎の歴史

焼酎のルーツ

メソポタミアから大陸を横断し、タイを経て琉球、そして九州へ・・・。これが一般的に考えられている焼酎のルーツですが、15世紀頃、当時シャム国といっていたタイとの交流の中で琉球に伝えられた蒸留酒ラオ・ロン(南蛮酒・焼酎、阿刺吉酒(あらきざけ)などとも)が焼酎の前身にあたるようです。中国大陸、東南アジア、インド亜大陸、南方諸島などには阿刺吉酒に音が似ている「アラック」という強い酒が既にあったとも言われています。琉球王朝はなんとかしてこのような蒸留酒を自分たちの手で作りたいと考え、苦心のすえ生まれたのが「泡盛」です。こうして国産焼酎は琉球から薩摩へ伝播。鹿児島県大口市の、郡山八幡神社の神殿の横木の落書きに歴史最古の「焼酎」の二文字が発見されていることから、落書きが書かれた1559年当時、つまり室町時代には焼酎の名で庶民に愛飲されていたことがうかがえます。ちなみに翌年1560年は桶狭間の合戦の年。戦国時代のただなかで、焼酎は人々の酒として、また刀傷の消毒薬としてさらに東へと広まっていきました。

大分の焼酎の歩み

江戸時代、豊後の国・大分はまだ清酒王国で、清酒粕を原料に「粕取(かすとり)焼酎」がつくられていました。これは清酒粕を発酵させたものに籾がらを混ぜ、セイロで蒸してアルコール成分を抽出したもので、籾がらを混ぜるのはセイロの中で蒸気が通りやすいようにするためでした。明治中頃になると焼酎の製造技術の進歩はめざましく、白糠や穀物からも焼酎がつくられるようになりました。原料は依然米麹と穀物でしたが、昭和26年、麦の統制撤廃とともに本格的な麦麹の開発が始まり、昭和47年、おりしも健康食ブームで麦の栄養価が見直されだした頃、優れた麦麹の開発に成功し、麦麹と麦を原料にした麦100パーセントの大分の本格焼酎が誕生したのです。香ばしく、まろやかな味、口あたりよく酔い覚めさわやか。そんな大分の本格焼酎は時代の趣向にマッチし、またたく間に全国に焼酎ブームを巻き起こしたのでした。

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